Rutgers大学滞在記 (セラミックス誌「クロスロード:世界は今」掲載文より)
「セラミックス」32[7], 567-569 (1997)
1996年3月から1997年1月までの10ヶ月間、米国NJ州立Rutgers大学セラミックス学科ファイバオプティックマテリアルリサーチプログラム(以下FOMRP)のE.Snitzer教授の下で客員研究員として滞在する機会を得た。筆者にとって初めてのアメリカ訪問であると同時に、優れた環境で優秀なスタッフ達と研究ができる喜びにわくわくする思いで夕方Newark空港に降り立ったことを鮮明に覚えている。空港で出口に到着した時にいきなり"Tanabe!"と呼ぶ声がしたので、振り向くとSnitzer教授本人の予期せぬ出迎えにまず感激した。キャンパスに向かう途中で御馳走になったあと、アパートが決まるまで住む大学の寮に案内してもらった。翌日,FOMRPのスタッフとポスドクに紹介され、私と偶然入れ違いで帰国される松浦祐司氏(Harrington教授のポスドク、現東北大学通信工学科)と会い、生活に必要な最初の事務手続きについて教えて頂くことができた。
伝統あるラトガース大学のセラミックス学科については本誌2月号の随想で紹介されているので省かせていただく。FOMRPは1986年にNJ州科学技術委員会により、全米から著名なスタッフを集めて構成されたもので、三つのファイバー線引きタワー,プリフォーム作製MCVD装置など大学としては全米でも随一の設備を誇る。ディレクターは、Naval Research Laboratory出身のG.H.Sigel,Jr.教授でシリカの欠陥、非酸化物ガラス、センサを、J.Harrington教授はホローファイバによるパワー伝送の世界的権威、J.Matthewson助教授はAT&Tベル研出身でファイバの疲労破壊特性を,Shariari助教授もNRL出身でフッ化物ファイバとファイバセンサを専門としている。他にBellcoreのC.R.Kurkjian博士は客員教授で月に二、三度程顔を合わせる機会があった。NJ州はAT&T、Bell研(AT&Tの三分割により現LucentTechnologies)、BellCore,Exxonなど、巨大企業や研究機関が林立する地であり、得にFOMRPはBell研やBellcoreとの研究交流が非常に盛んである。T.A.Edisonが活躍したメンロパークもキャンパスのそばにあり、Edison市は隣である。
研究テーマについてSnitzer教授はファイバ材料、デバイス、システムのいくつかの選択肢を示し、決めるまで2週間くらい考えた方が良いとのことであった。幸い希土類レーザと光通信のパイオニアである彼の指向性と希土類ガラスの光学特性を専門とする私の興味が一致した点が多く、いくつかの可能性の中から波長多重伝送用通信光増幅器の研究を行うことになった。
実験を開始するに当たり驚いたのは、試料の作製に際し4N以下の試薬を殆ど使わないということで、ファイバにしたときに損失が問題になるからということであった。Snitzer教授は、研究議論が熱中してくるとすぐ計算に取り掛かるという習慣がある。化学出身の私は定性的な考え方が身に付いているため、ダメじゃないかなと思うとそれで諦めてしまうのだが、彼のやり方はある物理量なりが概算によってどれだけであるかという見極めが非常に定量的である。また成功者に共通の性格であるが、何事にもポジティブで陽気な話好きという印象を受けた。
FOMRPは連結するCenter for Ceramic Researchとの垣根も殆どなく、院生は所属教官と無関係にオフィスに数人ずつ分属されている。私はSnitzer教授の弟子で当時FOMRP唯一のポスドクであった、John Prohaskaとスタッフ室を共有した。彼は私と同年齢でテーマは異なるが、研究に関して毎日お互いに刺激し合える素晴らしい同僚であった。当初日本人が一人であることに不安を感じたが、今から思うと大きなメリットであったと思う。全体の約10%ずつを占める中国人や韓国人の留学生は自国人同士で固まる傾向があったが、Johnのおかげで私は始めからアメリカ人たちのパーティやディナーへの誘いが多く、家内共々友人になれただけでなく、実験装置や不慣れなコンピュータのことで快く助けてもらうことが多かった。特に着任2ヶ月目の時にセミナー室で日本での自身の研究講演を行った後は、皆非常に協力的な環境でやり易くなったという実感を得た。そして日本人より挨拶を大切にするアメリカ人の習慣が私には心地よかった。
研究者との交流はまた予期せぬ展開を生んだ。私が希土類ガラスの青色アップコンバージョンの講演をすると、MCVD法で作った赤外ファイバレーザ用Tm-ドープファイバを試してみないかということになった。これまでバルクガラスでの実験経験しかなかったが、励起レーザ、ファイバクリーバ、カップリング持具、蛍光測定システムはすべてある。6月の一月は副業としてそのファイバに取り組んだ。装置のセッティング、色素レーザの調整とカップリングなどに計一週間程かかったが、初めてファイバが青々と輝くのを見たときは感激した。シングルモードファイバのコアが小さく励起パワー密度が高いためである。他にアップコンバージョンの研究をしている人がいなかったので、その後一週間ほど、「"BeautifulFiber"に成功したんだって?」と私の実験室に次々に人が訪れた。ダイクロイックミラーを特別注文してレーザ発振を試みたがこちらは不成功に終わった。が、ファイバレーザの貴重な実験経験をすることができた。
ファイバオプティクスのパイオニアであるSnitzer教授は、顔が広いだけでなく、私自身が短い滞在期間でできるだけ多くの見聞を広げられるよう努めてくれた。例えば四月の週末にメキシコ料理を御馳走するからといって、そこでBell研のJ.Machesney博士(光通信用低損失ファイバ、平板導波路などの開発者)夫妻を紹介してくれた。そこで、彼から「講演しに来ないか?」と誘われ、Snitzer氏も「是非ベル研の一流の研究設備を見学させてもらうといい。」ということになり、あこがれの地へ足を運ぶことになった。
Bell研は自宅から30分のMurrayHillに位置する。朝10時に着き、20人程の研究者の前で「光増幅器とアップコンバージョンレーザ用希土類含有ガラス」という題で1時間の講演を行った。その後4人のファイバ、光増幅器部門の人たちと昼食を共にし、午後は7、8人の研究室をたらい回しになった。自分の滞在先をいうと口々にSnitzer教授の高い評価を聞くことができた。それは過去の多くの業績に対するものというよりは、次々に新しい概念や分野を開拓する研究姿勢に対するものであるように思われた。訪問から1、2週間後に,Snitzer氏がわざわざMachesney博士からの手紙のコピーを持ってきた。そこには「Dr.Tanabeの訪問を楽しめたことを感謝する。彼の講演はExcellentでそれはここで評判になっている。」と書いてあった。このコピーは今でも大切に保管している。
そのほかCorningでのNon-Oxide国際会議、NH州でのガラスのGordon研究会議などにも参加した。1996年はアトランタオリンピック、大統領選挙、野茂のノーヒットノーラン、NYヤンキース優勝の年でもあった。研究所で唯一の日本人であった私は、野茂の快挙の翌日、何人かの人に「俺もドジャースのファンだ」と声を掛けられた。ヤンキースのマンハッタン優勝パレードは混雑を恐れて行かなかったが、生粋のNYっ子であるジュリアーニ市長が先頭にたっての微笑ましい光景であった。また11月アメセラ秋季ミーティングで訪れたTX州サンアントニオでは偶然、投票日4日前のクリントン夫妻の演説を聞くことができた。
私の帰国の時が丁度彼の引退パーティの時期となり、セラミックス学科のスタッフ、卒業生、Bell研、Bellcoreなどの友人たちが昼に彼の大好きなイタリアレストランに集まった。挨拶で「Rutgersにきてなにより若い学生たちとの交流を本当に楽しんだ。特に最後に優秀なポスドクと仕事ができ、大いに刺激を受けた。」と述べられ、感激した。その晩は私達の送別会となり、ご夫妻,Johnや卒業生らと10人ほどでバーへ行った後レストランでのディナーとなった。
10ケ月の滞在であったが、それだけに全力疾走し、甲斐あって実り多いものとすることができた。最後に機会を与えて下さった京都大学の皆様、留守中特にお世話になった花田教授、そしてRutgers大学の皆さんに謝意を表します。
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Rutgers大学セラミックス学科ファイバオプティクマテリアルズ
リサーチプログラム滞在記ーーーその2ーーー
Stay at Fiber Optic Materials Research Program, Department of Ceramics
Science & Engineering, Rutgers University, Part 2 「ニューガラス」誌vol.12, No.4, (1997) p.50-54. 掲載文より
(京都大学総合人間学部) 田部 勢津久
Setsuhisa Tanabe; Faculty of Integrated Studies, Kyoto University
帰国直後、依頼されてセラミックス誌にも滞在記を記した。それから半年が経ち、記憶も少しずつ薄れてきたこと、読者層がかなり重なることなどを考えて、本誌の執筆依頼を躊躇したのだが、辰巳砂委員長から是非にと依頼されたのでお受けした。同じ事を2度3度書くのにはやはり罪悪を感じるので、本稿ではなるべく異なる内容を期し、いくつかの裏話や思い出について綴ってみたいと思う。私の滞在記正史(?)、FOMRP研究所にご関心がある方はセラミックス誌1997年7月号クロスロードを、また私の行った研究内容に関心がある方は、今年のアメセラの年会あるいは、セラ協秋季シンポ予稿集を御覧されたい。本文は思いつくままに綴ったので順不同であることをお許し頂きたい。
Rutgers大学って?
全米で唯一州の名を冠しないNJ州立大学で、理由は独立13州の歴史より、大学の歴史(300年近い)の方が古いからだそうである。ある人はNJ州はRutgers州になってもよかったんだという。また本学は日本最初の米国留学生日下部太郎(福井県出身)が江戸時代末期に留学した地でもあり、日本との交流は実はアメリカ最古である。学部生だけで4万人、総勢10万人近いマンモス大学で, Newark, Newbrunswick, Camdenの3つの地区が州の3ヶ所に位置し、私のいたBuschキャンパスはNewbrunswick地区の5キャンパスのうちの1つでありながら、フットボールスタヂアム、ゴルフコースを含んでいる。
NY州に隣接するNJ州は全米で最も人口密度の高い州(信じられなかったが)であり、巨大企業や研究所が林立する地である。発明家エジソンが研究と事業を興し終生住んだMenro ParkやWest Orange、グラハムベル由来のAT&T、Bell研の位置するMurray Hill, Holmdelも近くに位置する。ちなみにBuschキャンパスの位置するピスカタウェイ市の東隣はエジソン市である。Rutgers大学は総合ランキングでは、西隣の名門プリンストン大学に劣るものの、セラミックス学科の教授陣、学部大学院の教育システムには全米でも定評があり、優秀な人材を輩出している。地理的な要因もあるが、多くの院生がBell研やコーニング社などの超一流企業に就職しており、ある教官は、「自分の学生を特定の会社にばかり採られたくない」とかなり本気で言っていた。
Elias Snitzer教授について
その名は光通信、レーザ材料の分野の方にはおなじみだが、改めて紹介すると、1961年、Maimanによるルビーでの初の固体レーザ発明の翌年に初めてガラスレーザを開発、1963年ファイバレーザ、1964年Er-Ybファイバで1.5μm光増幅を初めて確認、これが1987年のEDFA(エルビウムドープファイバアンプ)の開発に先立つこと20数年であるから驚きといいう他はない。勿論これらの輝かしい業績は,1980年代から急速に進歩した、光ファイバと半導体レーザの開発がなければ今ほど脚光を浴びなかったかも知れない。口の悪い人は、彼が有名になった(偉大さが認められた)のは、1987年以降だという。それ以前に既にMorey賞,C.Towns賞など数々の栄誉に輝いているにも関わらずである。こう書くと多くの人は昔偉かった老大家と誤解されるので補足すると、彼の仕事は60過ぎてからも目を見張るものがある。キレートドーピングによる希土類ファイバ用プリフォームの製造法、多くのファイバレーザ設計、EDFAの励起法に関する提案、ファイバグレーティングの特許など、現在の光通信技術やファイバ光学に対する寄与は70を過ぎた現在も絶え間なくなされている。また1990年、Rutgers滞在中のNTTの大石泰丈氏と共同でPrドープフッ化物による1.3μm用通信光アンプを提案していることは有名である。
出身はMA州のTufts大学電気工学科、Bostonでの在職歴が長く、今もBostonにファーストハウスをお持ちである。彼の話によると在学当時はレスリング部に所属、修士博士は名門Chicago大学院の物理学科で、テーマは忘れたが実験物性物理で学位を取得、当時PhDを取得する条件は、1つの単独名論文がしかるべきジャーナルに受理されていることであったそうである。昼食での会話の最中意外な事実を知った。Chicago大学時代は錚々たる教官がおり、あのZachariasenに固体物理を、Enrico Fermiに量子物理を習ったそうである。大学院終了後からAmerican Opticsでの活動が始まるまでの間の経歴については、余り聞く機会がなかった。
おかしな勘違い談(失敗談というほどではない)を一つ
アメリカ到着の翌日,アパートに引っ越すまで一時的にしばらく学生寮から通うため、Eliは自転車を一台あげるからといって、時差ボケ未だ醒めぬ私を大学近くの自宅まで連れていってくれた。以前息子さんが使っていたという立派なマウンティンバイクを調整して貰っているときに、彼の家の窓に、長さ50cmほどの美しい紫色のNdレーザガラスロッドが飾ってあるのを見つけた。昔自分が見た記憶からとっさに「これはHOYAのレーザガラスですか?」と訊くと,「Ameriacan Opticsをretireするときに記念品として貰ったんだ」と笑いながら教えてくれた。この時はすぐに彼の業績に思い至らなかった(時差ボケのせいにしよう)し、それまで私はSnitzer氏の経歴でしかその会社の名前を聞いたことがなかったのであるが、良く考えればパイオニアに対して失礼な質問をしたものである。彼の様な度量の広い人でなければ「こいつ何を考えて俺のところに来たんだ」と思われても仕方のない質問である。
この後、道案内のためゆっくり運転する彼の車の後を追い、大学まで自転車で戻りながら、レーザ開発の歴史を反芻した。この日から車を買うまで10日間の自転車生活がはじまった。
日頃の昼食について
Fiber Opticsでは日本人が周りにいなかったが、大学の国際女性プログラムに参加していた家内から、多くの客員日本人はわざわざアメリカ人と別に昼食を食べていることが多いと聞いた。語学の問題もあろうが留学の意義は半減するといって良い。朝晩に自宅で日本食がある程度食べられる(マンハッタンのハドソン対岸のNJにはヤオハンがある)のであるから、たとえハンバーガーやピザが死ぬほど嫌いでも同僚との昼食でのコミュニケーションは大切にすべきだと思う。Rutgersの場合、車でキャンパス外に出ない限り,学生センタしかレストランがないので、学部生から、ポスドク、教授、学部長までが、同じレストランで顔を見かける。日本での経験と異なるのは、テーブルの都合によってはそこで初めての人とでも向こうから同席する場合があるということだ。勿論普段は同僚のJohnやEli(イライ;Snitzer教授)、あるいはFiber Opticsの院生と一緒の事が多いが、彼らの知り合いが、お盆(?)をもって席を探していたりすると、同席することになる。そこで紹介されて得た(同じ飯を食った)知己からの情報というのは結構バカにならない。客員研究員というのは短期間であるから、大勢いる研究所の内部事情について、院生あるいは学部生以上に何も知らない。が、どの技官や院生がどんな人で、どの装置は誰に聞いたら使えるか、どの教授がどんなプロジェクトをもっているか、人間関係と情報というのは仕事の進捗上大切である。
幸い私の場合は、週に2,3日はEliやJohnと3人での会話を楽んだ。研究の話が面白いのは当たり前だが、どちらも話題が豊富で、政治経済、文化、歴史的な洞察について大変教養深い。特にEliはイタリアンが大好物だがそれだけでなく日本食も旅行も好きで日本通のうちに入るかもしれない。また丁度96年の大統領選挙と日本での総選挙の最中には、日米の政治論議に及んだこともあった。日本人はあまり選挙の最中に支持政党などを明らかにしない(というより、ない)人が多いのに対し、皆自分の意見を言うところが気持ちがよい。私の印象では少なくともNJ州では民主党支持者が多く、あれだけスキャンダルが多いクリントン大統領が圧倒的人気があったことだ。確かに、共和党のドール候補とのテレビ討論を見ていても、演説討論が抜群に巧い。ドール氏はその戦歴や人柄の誠実さは優れるものの、視聴者を惹き込む魅力に欠ける。偶然、アメセラの秋季ミーティングで訪れたテキサス州(ブッシュ元大統領の息子が知事で圧倒的共和党の地盤である)のサンアントニオで、投票日4日前の民主党演説会に遭遇し、ヒラリー、ビル大統領夫妻、上下院議員候補の演説を直に聴いたが、聴衆を熱狂させる術を心得ている。良くも悪くも民主主義が根付いており、政策決定のプロセスが明らかでない日本の政治風土とは大いに異なる。
困るのは、日本の首相がなぜ頻繁に替わるのかという質問である。日本の議院内閣制、自民党の党内事情、政治風土等について理解を得るのに苦労した。これは私の語学力に問題があったからではない、と思う。
12月のある午後Eliのオフィスで
クリスマス前だったろう、いつものようにエキサイティングな研究議論が終わった後、私が「今日はNYのリンカーンセンタにヘンデルのメサイアを聴きに行くんだ」というと、彼は「それは素晴らしい、僕も唱ったことがある」とハレルヤのバスパートを唱い始めた。奇しくも学生時代に団員として、京大とPrinceton大学とのjointコンサートで唱ったことのある私も思わず合唱してお互いに大笑いした。私が「よく知ってるなあ(英語では敬語じゃなかった)」というと「学生時代に合唱団にも所属したんだ。」「たしかレスリング部じゃなかったですか?」「若い時はおかしな事を沢山したものさ。」とおっしゃり、その人柄によけい親しみを覚えたものである。
10月にお宅にディナーパーティに招かれたときのこと
BellcoreのChuck Kurkjian博士(1960-80年にAT&Tベル研で多くの分野で先駆的業績を挙げられた)夫妻も同席された。宴たけなわ、私は2日前にした貴重な経験について話した。NYのカーネギーホールのベルリンフィル演奏会で小和田国連大使夫妻に会い感激したこと、2列後ろの席だったこと、感激した理由は彼らが皇太子妃の両親として有名人であるからということを説明すると、興味を惹いた。皇室が存在しない米国人にとっても、英国人の王室に対する愛着憧れ(どうも最近は違うようであるが)がある程度理解できるように私たちの感激(ミーハーさ?)も理解してくれたと思う。
Kurkjian夫人とSnitzer夫人(双方だったと思う)が、日本の皇太子妃は有能で進歩的な外交官であったのに、皇室の封建的な因習の中に閉じ込められ、2世誕生のプレッシャーで苦労しているという、評判を指摘された。タイムズ誌か何かに評論が載ったのだと記憶している。当時ダイアナ妃の離婚が成立した頃のことである。私は母国の名誉のために「それは一面ではそうかも知れないが、皇太子は彼女を射止めるために(きっと)誠実に対応し、今も彼女を大切にしていること、彼女は違った形で外交官としての役割を果たしているのだろう」と説明して、名誉回復をしたつもりである。
ちなみにこの1週間後、橋本総理がNYの国連総会に出席、演説し、小和田大使主催の晩餐会があった。その何日か後日本が非常任理事国に当選したことを聞いた。
Gordon研究会議「ガラス」
6月下旬NH州のTiltonスクールという私立高校(年間授業料2万ドル!!)で行われた。FOMRPのディレクタである、G.H.Sigel教授が主催議長であったので、私のオフィスまで来て是非参加してはと勧めてくれた。当時丁度Tmドープシリカファイバで青色アップコンバージョンに成功したばかりであったので、「その写真を持って講演してはどうか」ということである。開催直前に申込をして、森と湖のNH州へ6時間のドライブで出かけた。日本からは、京大の平尾一之先生、東工大の細野秀雄先生、矢野哲司先生が参加された。5泊6日の強行合宿形式で有名で、研究者間の親密な交流を深める上で非常に有意義な会議であった。私は飛び入り形式の短時間の講演ではあるが、日本でのTmドープガラスの研究成果を含め、周到に準備して望んだ。3日目の深夜最後の順番が終わってから、懇親会になって、多くの人から賞賛を受けた。フランスのレンヌ大学のJ.Lucas教授は「おい、夢見るブルーレーザーガイ!」と冷やかされた。
ちなみに午後の自由時間は、毎日違った人たちとダブルスでテニスをした。最後のディナーはロブスターであったが、3食通じて御馳走であった。聞いたところさすがに普段の高校生向け(全寮制)のメニュウとは違うそうである。最終日朝は平尾、細野両先生による講演で6日間の幕を閉じた。日本のガラス研究のレベルの高さはかなり評価されている。
そろそろ紙数のノルマを達成したと思う。乱文多謝。補足説明はセラミックス誌を参照されたい。思い出はつきないが、良く学び、程々に遊んだ、ということにしよう。滞在を実りあるものにしてくれた、Snitzer教授, John Prohaska博士はじめ、関係者の皆さんに感謝したい。
写真1:FiberOpticsの実験室にて 2:Snitzer教授お気に入りのイタリアンレストランにて(右から筆者,Snizter教授, Eva Vogel博士, J. Prohaska博士)
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